小出優子 柿崎コンシェルジュ生活学校代表・新会代表・市民として
~大真面目に楽しく、いのちの物語をつむぎたい~
長岡駅から「さよなら25年記念講演会」会場の長永寺へ歩いていると、ふと医考会パートⅡ代表だった中村啓織さんのお顔が浮かんだ。
「どうされているのかなあ。」と思いながら会場に入った。
木曽さんから啓織さんが亡くなられたばかりと聞かされた。
中村代表は、にこやかなお顔で「医考会は先生とは呼びあわない会です。
『○○さん』と呼びあう会です」と例会挨拶で毎回言ってくださった。
私は、「啓識さん」と呼ばせて頂いていた。
正に、医考会25年を見届けて下さったかのような不思議を感じた。
医療の心を考える会パートⅡにご縁を頂いたのは夫の父がビハーラ病棟で亡くなったのが契機。
NHKスペシャルを途中から何気なく観始めた私は、「こんな病院があるのか。いいなあ。」と思った。
番組の最後に患者さんが屋上から長岡の花火を観ていた。
それが、「長岡西病院ビハーラ病棟」だと知った。
その数ヶ月後、義父は余命一カ月と診断され、主治医から転院先として紹介されたのが「ビハーラ病棟」だった。
驚いた。12月18日に転院し、年末年始外泊を挟んで平成5年1月29日に亡くなった。
新しい医療に目を見張り、妹三人と母はゆったりとした中で父に寄り添い看取ることが出来た。
感謝でいっぱいだった。
遺族会の案内が来たが、母は働いていたしので、主婦だった私が参加した。
平成8年「医考会パートⅡ」の案内が来た。
お世話になったお礼という思いもあって申込書アンケートに【例会○、交流会×、世話人をする○】と返信した。
世話人=連絡係と思い込み、上越方面の電話連絡係を引き受けたつもりだった。
電話連絡係ではなかったことはじきに分かった。世話人会があるというではないか。
「場違いなところに来ちゃったなあ。」と思った。
しかし、今に至る。大きな勘違いが生んだキセキ。
平成8年12月第一回例会(長永寺)で中村啓識さんが「人は事故で死んだ、癌で死んだと言うけれど寿命で死ぬのです」と言われた。
考えてもみなかった。
それから20年、ザル頭を自認している私だが、致死率100パーセントを生きているいのちの学びをさせて頂いたと感じる。
少しずつ少しずつ降り積もるようになんとなく分かったような気もするこの頃。
また、わたしをつなぎとめてくれた大きな部分の懇親的交流会は、大真面目に美味しい肴と地酒というしつらえ。
講師の方々も交じって一部では恥ずかしくて聞けなかったことも、ほろ酔いで質問できた。難しいことを難しく語らず、難しいことを分かりやすく語るということは本当に難しいことだ。
医考会のコンセプト「真面目に楽しく!美味しく!」は、「つむぐ会」にも継承されることになっていて嬉しい。
最後に言い訳。
新会発足プレゼンテーション鼎談(ていだん)との事だったので、医師の今井さんと僧侶の井上さんがお話をして、私はあいの手くらいだからと何にも考えていなかった。。
直前に、今井さんから、「丁寧に自己紹介をしましょう」と言われ、井上さんが「話の内容から、僕は小出さんの後からでないと物語がつむげない」といわれ・・・残った時間でよいと思っていたのに、「丁寧に」話し終わったら、井上さんが「10分しかない」と叫んだ。
消え入りそうだった。
みんなで、大真面目に楽しく、勘違いも含めて、いのちの物語をつむいでいけたらいいなあと考えている。