井上陽雄 浄土真宗本願寺派僧侶
柿崎例会で来られた若松英輔氏が「宗教者が、一つの存在として死者を公に語ることをしなかったことに強い憤りを感じる」と言われました。
僧侶である私も、大切な教義を現場に生かしきれていないと思います。
いのちとは何だろうか。
人は何のために生まれてきたのだろうか。
死をどう受け止めたらいいのだろうか。
このような問題は、私達人類の大きな課題です。
その課題を公の場で、いろんな方と自由に本音で語れられる場がほしいものです。
この会は、それが可能であるといつも楽しみにしております。
この会の魅力は人との出会いにあると思います。
この度の第2 回例会で、皆様に篭島医師を紹介したかったこと。
篭島医師を皆様に会わせたいと思いました。
それが遠近各地より私の知り合いやたくさんの方が来て下さり、本当に嬉しい気持ちになりました。
また、この度の会所として真行寺様ご住職・坊守様には心より感謝し、御礼申し上げます。
もっともっと時間をかけて多くの方と語り合いたいので、この会を大切にしていきたいと思います。
今後も計画していきますので、皆様のご参加をお待ちしております。
医考会との出会いは、代表の一人であるご門徒の小出優子さんが、義父を長岡西病院で看取られたのがきっかけだった。
ご本人がご自宅から西病院へ転院するとき、車窓から米山を見て「これが最後かもしれない」と言われたと聞いた。
とても辛い気持ちであったと思う。その方の祥月命日が1月29日で、その時もお参りさせて頂いた。
お仏壇に置かれているその方のお写真を見ると笑っておられる。
その時に、そういえば医考会の物語はここから始まったんだなぁと思った。
ですから、人には、死で終わらないで、生きている人と共に物語があるのだと思っている。
ご講師の篭島医師のお話しを簡単にまとめさせていただきました。
先生は、医療は頼りないものであり、医療では人は救えないとおっしゃいました。その理由に
〇治せない病気が圧倒的に多い
〇治っても次の病気が訪れる
〇老化には何もできない
〇病気は予防しきれない
の四つを示され、その後に神道、仏教、キリスト教が死をどうとらえているのかをお話しされました。
〇神道の死は、この世が一番いいところ死ぬと汚い穢れの多いところへ行く。
〇仏教の死、この世(娑婆)は穢れ多いところ 死ぬと清らかな浄土へ行く。
〇キリスト教の死は、命の終わりではなく天の神から地上での罪が許され、永遠の安息を与えられる。
やはり生きていく上で信仰は大切ということです。
私が先生の話の中で、とりわけ印象に残ったのが、「50 代は下り坂 60 代は夜道 70 代は崖っぷち 80 代は氷の上」。
私は61ですので、夜道を歩いているということですが、でもその中で、自分のなかで一筋の光を見出すことが大切だということでし
ょう。
また、先生は、三人のお言葉を紹介されました。
〇そして私たちが死だと思っているものは、実は死体であり、本当の死ではない -池田晶子
〇大休みのなかから 生まれてきて 小安みに中休みをまぜてやりつづけさいごにまた、大休みにかえっていく -まどみちお
〇明日死ぬかのように生きよ 永遠に生きるかのように学べ -ガンジー
最後に「与えられたいのちを、懸命に生きる たとえ今死んだとしても悔いが残らないような毎日を生きる」とご自身のお考えをお話しされました。
※第3号「つむぐニューズレター」(新潟いのちの物語をつむぐ会)発行2019年(令和元年)5月1日(水)より抜粋
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