黒岩卓夫さん 当会代表・萌気会理事長・医師

~「いのちの物語をつむぐ会」への期待~

「医療と宗教」の旅は細く長かった。
そのうえ、節目が4つあり、この4つとも姿の大小を問わず、旅のオアシスとなり、心は少しずつふくらみ、やさしくなってきたと思う。

スタートは昭和59年12月13日、東京を舞台に、故日野原重明先生を中心として、「医療と宗教を考える会」が発足した。
この会のターゲットは医療界だった。
その切り口は3つあった。

黒岩氏

ひとつには、医学の最先端が切り開いた脳死や臓器移植などに人類社会はどう対応したらよいのか。
ふたつには高齢化社会で死に至るまでの病と老いの長い道程、みっつには不治の病、非条理な死への心の救済の3点であった。

7年間でこの活動を終えたが、この会の成立と運動は医療界のみならず各方面に大きな影響を与えた。
その後に新潟県に活動の場を移し、仏教との関わりを大切にした「医療と心を考える会」(医考会)がこの流れを受継いだ。これもパートⅠ、Ⅱ、Ⅲと進化し、主として仏教界を基盤とし市民に向って医療や生や死について語りかけるスタイルになった。

また長岡西病院の緩和ケアビハーラ病棟を実践の場として連携を大切にしてきた。
しかし医療制度の中で苦闘する緩和医療と、どちらかというと市民運動である「医考会」との間に目的意識のズレが生じた。これは当然のことだったと思う。
そこで「医考会」は自立する方向に舵をきった。一人歩きに踏み切るにはパートⅣを待たねばならなかった。

そこで名称も変え、活動のスタイルも変えながら今までの歩んできた「物語」を会員や市民一人一人の「物語づくり」へと転換することになった。

新しい会の名は「新潟いのちの物語をつむぐ会」である。

この「医考会」の自立を目指した衣替えのコンセプトは、内的要因だけではなかった。
宗教者の医療への参画の道が明治以降の長い時間を経て、また一部医師の死を看取る献身的な活動と悲願、東日本大震災(津波)の巨大な被害への宗教者や医師の絶望と切迫感から、臨床宗教師という公的な職能が生れた。
こうした背景があった。

黒岩氏

医考会の進化はこうした新しい波と軌を一にした展開だったと考えたい。

さて私的(私と萌気会)なことになるが、在宅ケア、在宅看取りを25年間にわたって模索しつつ実践してきた。

そのなかで法人が持っている建物としてのお寺(桐鈴会にもひとつ)があり、一人の僧侶がいる。

萌気会は医療法人であるが、市から指定され運営している「こども園」も加えて約350人の法人になった。
小とは言え、魚沼地区では魚沼基幹病院(454床)についでの大所帯になっている。
この萌気会と障がい者もケアしている福祉法人「桐鈴会」を加えて地域包括ケアの統合の重要な要素になっている。

こうした魚沼の地で安心して暮らせるまちづくりは、「いのちの物語をつむぐ会」とも協働し、支援を期待したい。また当法人の中にも自主的な会として“考える会”は生まれ、上下関係や専門性のギャップを取り去った自由な話し合いの場になっている。
この会のメンバーが「つぐむ会」のメンバーにもなっている。

そのうえで「緩和ケアビハーラ」とも改めて交流し支えあえる関係をつくって行きたいと思う。
お互いの情報交換だけでなく、たとえば緩和ケアとは何か、死に直面するとは何か、死後の世界とは何か、入院と在宅との関係の構築など、共通するテーマとして語り会えるのではないだろうか。
とりあえずは“つむぐ会”からビハーラへエールを送りたい。

さらに一言、ビハーラの理念や病棟創建の指導者であった田宮仁先生とも、これからは遠慮なく語り合えるのではないであろうか。
浄土真宗やビハーラの理念を理解し、親鸞の思想を学ぶ御縁をいただけることを期待したい。